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about cross-cultual understanding

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奈良のとある通りにあるパン屋さん。

古びたお店が並ぶ通りに馴染むけど、間違いなくおしゃれなデザイン。

 

 

 

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~Nara's deers are falling into a doze in Kofukuji~

 

私が住む街奈良市は、言わずと知れた日本屈指の観光地ー。

外国人観光客を目にする事は日常茶飯事です。

 

 

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文化遺産を数多く有し、市の政策としても外国人誘致に力を注ぐ「寧楽の地」には、季節を超えて様々な国の人が訪れています。

 

 

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そのような中、近年、特に中国人観光客の方々を目にする機会が増えたように思われますー。

 

私の生活圏内には沢山の土産物屋、観光、宿泊施設などがあります。

私自身も日常的にお世話になる機会が多いのですが、その施設内でのトイレ利用の際に気づいた事があるのです。

 

 「用を足した後は、吹きとった紙は便器に捨て、水にお流しください。」

 

こんな利用案内が、英語や中国語で表示されたものを見る機会が増えたように感じます。

これは、ホテルに限らず、商業施設や飲食店、奈良公園など至る場所に備え付けられたトイレで見られる表示で、先日京都でも同じものを目にしました。

 

 これは、訪日中国、韓国などアジア圏の観光客増加が原因だと言われています。

先述のような表示は、近年、観光地で用を足した際、観光客が使用後の紙を便器に流さず、脇のゴミ箱に捨てる事態が多発するようになったので、取られた措置だと報じられていました。

 

かつて来日の際、自国の文化圏には存在しない「和式便器」に初めて遭遇した外国人観光客が前後どちらを向けばいいのか分からず困惑した、なんていうトラブルが起こって、和式から洋式に改修する観光地が増加しました。

 

排泄行為をめぐるトラブルは便器の様式を変えても尚続いているのです。

 

 異文化交流を考える時、トイレットペーパーの処理を巡る一件などを通じて、考察しないといけない事が二点あると思います。

 

一つ目に、観光客自身は母国での作法に従っただけで、これは彼らの中でのごく「自然」な行為が招いたトラブルであるという点。

 

そして、もう一つは、来日してもらう日本の側にとっては、「このような事態が起こりうるという」想像を巡らす事が出来なかったという点。

 

それは、アルフレッド・シュッツ的に考えれば、人間にとっての日常的な「排泄」という行為一連の自明性が、各人の生きる社会で構成され、そこに「暗黙の秩序感覚」が作動していることが大きな要因であると言えるでしょう。

つまり、無意識にやってる自明な行為だからこそ、その当たり前に気づかなかった・・・。

 

 インフラが整備されて、水洗トイレが普及した今の日本社会では、「排泄の後、吹き取った紙は便器に捨てて水に流すもの」という自明のルールが存在しています。

これは、私たちが生まれた時から、自国の文化内で日常生活を送る中で、ごく自然に身に付けた振る舞いです。

 

排泄は人類、生物にとって普遍的な行為、でも排泄スタイルは文化によって差があります。こんな当たり前の事実に、改めて気付かされた時の「驚き」の感情が、自明性を捉える契機になるー。

 

シュッツは、異文化理解を通じ自文化理解が得られる事を指摘しています。

彼が述べるように、各々の文化を本質的に見れば、どんなにそれが我々の内では自明のものに思えても、「恣意的」で「相対的」なものなのでしょう。

 

 普段「これが当たり前」とみなして疑わない自文化中心の世界の分節化、でも、実はそれは相対的なものに過ぎなくって、分節化や作法は国や地域、時代によってそれぞれ違いがあるのです。そして、その違いがあるという事実は、異文化圏に生きる人たちとの出会いによって、「驚き」と共に初めて知らされる事があるのかもしれないのです。

 

でも、もし「これが常識」という思い込みー異文化理解を妨げる障壁が強くなってしまえば、どうなるだろう?多分、そこから、外国人への誤解とか、不寛容さが生みだされていくのだと思います。

 

訪日中国人外国人観光客の増加に伴って、インターネット上で飛び交うのが、「中国観光客はマナーが悪い」という表現ー。

ヘイトスピーチが大きな社会問題になるなど、日中、日韓関係の悪化という昨今の国家関係も加わり、更に彼らに対してのバイアスに拍車がかかって、結果として異文化理解のきっかけが奪われている、こんな悲しい現状があるのではないでしょうか。

 

1年ほど前、奈良のコーヒーショップで、中国人観光客の家族が、コンビニで買った食べ物をテーブル一杯に広げ、堂々と食べている姿を目にした時、私はつい色眼鏡で彼らを見、「傍若無人な外国人」と不快感を抱いた事がありました。

でも、もしかしたら、彼らは、個々の喫茶店とショッピングセンターにあるフードコートとの区別が無い文化圏で暮らしている可能性があったかもしれないー。

 

中国や韓国でインフラ整備が不十分な地域では、トイレットペーパーを便器に流さず、脇のゴミ箱に捨てる作法が自明となっているそうです。

なぜなら、そのような地域は、下水管が細く水圧が低いので、トイレットペーパーを水に流すと、下水管を詰まらせる原因になるからです。

韓国や中国のトイレ作法と日本のそれとは勝手が違うので、まなざしを異化する必要があるでしょう。彼らが排泄行為の後、トイレットペーパーを水に流さないのは、「マナーの悪さ」ではなく、「トイレットペーパーを詰まらせないための配慮」に起因している、という想像力がなの必要です。

 

異文化とは、自国以外の国の文化に限らないと思います。

一国内部でも、知らない土地を訪れて、新しい世界に触れる事は異文化交流といえるでしょう。通時的には、世代間交流も。 

とあるきっかけで、自宅から徒歩約五分の「奈良ホテル」に宿泊した際に、テーブルに置かれた小さな紙を見た時の出来事ー。

紙には下記のような英語が記されていました。

 

「Nara Hotel is located in green area . If you open the window,bugs will come in your room. It’s not prefere to it opened for a long time,especially in sumer.」

 

 その裏の日本語訳を見ると。「bugs」に「元気な生き物」という翻訳が・・・。(一瞬、「元気な生き物」とは「鹿」の事かと思ってしまいましたが)

 

この「虫」ではなく、「元気な生き物」と意訳した表現が私の琴線に触れました・・・。

 

「虫」と聞くと排除する対象と写りがちですが、「元気な生き物たち」という表現は、そのような一見自明の虫に対する意識を相対化して、愛すべき対象に変える力を宿した、まさに「玉虫色の表現」であると思います。

 

 

The memory of this summer in Nanba

 

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ライフというスーパーで見つけた菓子パン。

土用の丑の日にて。

 

The memory of this summer in Nagoya

 

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 名古屋は栄の地下で見つけたお店。

 

 

Ippeichan(Yakisoba)~shortcake taste~

 

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購入して食してみたら、意外に普通の味で、かえってがっかり。

「一平」じゃなく「一回ちゃん」。