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ゆく年編

今日は、一年間受けてきた授業の最終日だった。

今帰路につく途中、電車の中でこのブログを書いている。

 

ここでの勉強を活かして、来年は資格取得向け、新しい予備校に通う。

新たな門出と言うと大袈裟だが、そんな気持ちで頑張ろうと考えている。


一年前は教員免許を増やして、仕事の幅を広げていこうと考えていた。

だから、この一年で新たに単位を取って、免許の数は増やした。

でも、・・・一年勉強した今、気持ちは違う方向に向かって行った。

 

特に今の労働環境に不満はない。

いい場所で、やらせてもらっている。
でも、これから先は、もっと別のスキルを身につけなければ危険だ、ぼんやりそんな風に考えるようになった。


学校で働く私がこんな事言うのも何だけど、教育業界は沈みゆく泥舟に似ている。
この日本そのものが、沈みゆく泥舟であるので、教育業界からの逃避を企てても、大きな船が沈めば一緒かも知れないけれど。

 

まだ、うまく言語化できない。

日本の教育業界は程度の差こそあれ、沈みゆく泥舟には変わりない。

 

三十代後半、来月また一つ歳を重ね、数年先には不惑を迎える。

文字通りの「不惑」の域に達するのは無理だろうが、不惑を迎える頃には、教職から少しずつフェイドアウト出来る環境に身を置いていたい。

と言っても、多分細々続けて行くのだろうが、例えるならば、今は沈みゆく船に乗りながら、ライフジャケットも無い状態だ。

ならば、早急にライフジャケットだけでも手に入れて、いつでも飛び込める手はずは整えておきたい。

 


明日で2016年が終わるー。


イギリスのEU離脱、トランプ騒動を始め、この一年、世界は大きな転換期と思われる事件が幾つも起こった。


今、世界はグローバルの反動で内向きになり、分断化が進んでいる。
世界も中道を語る指導者が、生ぬるいと支持を失っている。
過激なナショナリズムの動きは日本国内でもある。

これから世界は、めまぐるしく変化するだろう・・・。


「豊かさとは何か」

価値基準に転換が求められている日本では、未だ景気さえ良くなれば、「豊か」な日本を取り戻せると錯覚しているように思える。愚かだ。

 

やれ、日本でオリンピックだと馬鹿騒ぎして、一時的に景気は回復しても、その様な一時しのぎ、謂わば出血多量の人にバンドエードを貼るようなものだ。

かさぶたはまた剥がれる、そんなの応急処置に過ぎない。


私は、オリンピックなど、なくなった方がいいと思う人間の一人だ。

 

お国のために、金メダルをー、何てスローガンなどやめてしまえばいい。

懸命にプレーする選手をナショナリズムの道具に利用するオリンピックが嫌いだ。

スポーツはナショナリズムに利用されやすい。

素晴らしい競技と、お国の栄光は関係ない。
でも、為政者が自分たちの都合の良い方向に、国民を丸め込もうとする時利用されるのがスポーツだ。
人々の心をナショナリズムの情動に駆り立てるのに、スポーツは都合がいい。
そして、国民がオリンピックの報道に夢中になっている時、目立たない所で都合の悪い法律が作られていくー。


そして、無駄な建造物が作られ、雇用を創出できたと言う。
応急措置的な事を続けても、その場しのぎの対策で終わり、オリンピック景気の後はその反動が来る。ハコモノは虚しく残り続ける。

 

土建国家日本の構造はいつまでも変わらないのか。

 

「文化レベルの低い所ほど
こういう立派な会館建てるんだよな」

これは某江戸の落語家の言葉ー。

 

高度経済成長の頃の日本は、もう二度と戻ってこないのに、何かの呪縛から抜けられない日本。

かつての「栄光」を取り戻すのが正しいのか、再考すべきだ。
果たして、栄光だったのかも含めて。
私は、あの頃の昭和が特に戻って欲しいとも思わない。
戻ってこないモノを愛惜するように、失われた時代は、美化され記憶を変容させる。
経済面では、夢のような時代だったと言われるが、同じぐらい負の側面も語られなければならない。多くの犠牲の下にあった経済成長なのだから。

 

私はこの国の未来を憂う一人である。

年の瀬に、世の中が浮かれムードの中、小うるさいじじいの様な締め方になってしまったが、これが正直な感想だ