芸術について思う事

~My memory of the certain Spring in Seto island Sea of Japan~

 

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「美しい花がある。花の美しさという様なものは無い」

 

これは、小林秀雄の言葉です。

「美しい花」か「花の美しさ」か・・・

現象界とイデア界の違いを感じる言葉です。

 

プラトンに言わせれば、「花の美しさ」、つまり、イデア界にある「美」そのものこそが、「真の実在」。

一方「美しい花」は感覚世界のもので、目の前の花は現象界にある仮象的存在に過ぎません。

 

小林秀雄の言葉は、「美」というイデアに対して、目前の具体的な花という体験そのものを優先させていると言えるでしょう。

 

プラトンの『国家』の中にこんなお話があります。

 

多くの美しいものに夢中で、音楽会や劇場を駆けずり回る文芸愛好家の男がいました。

プラトンは彼をディスります。

 

プラトンにしてみれば、「不完全な美しいものに目を奪われて恒常不変の一つのあり方を保ったイデアがない状態を生きている」、そんな奴だから。

感覚的世界に目まぐるしく、多彩な姿で現れる「美しいもの」に目を奪われた状態、いわば「夢を見ている状態」に過ぎないのだから。

 

「美」のイデア、「美そのもの」を知らずに、現象界にある、あまたの美しいものだって美しさの片鱗はあって、それらは、「真の美」じゃない。

でも、美そのものは分有していて、美そのものの臨在によって、つまり、美の欠片があるから、「わずかに美しいもの」にはなれる。

でも、文芸愛好家の男は、「美そのもの」を知りもせず、眺めもしないくせに、その「模造美」にすぎないものたちを、「美そのもの」と取り違えている。

プラトンにしてみればそんな残念な男だったのです。

 

仮に、「美しい声」とか、「美しい色」とか「美しい形」とか「ジャニーズ」なんか追い求めたとしても、美そのものの本性を見極めたことにはならないのです。

 

プラトン的には、美そのものが厳然と存在することを信じて、その真の「美」と、それを分有する「それ以外のもの」とを分かつことが出来るスピリットこそが「知識」だったのです。

 

じゃあ、「美」そのものにイデアなるものが、果たして実在するのか?

プラトンならば、「真の知識でもって、一致する普遍的な「美」がある」と考えるでしょう。

でも、それって可能なの?

 

ピカソや、岡本太郎の絵画やルノワールの絵画に共通の美なんてあるの?

芸術って、本来「美」を追い求めるものであると思います。

でも、岡本太郎が芸術の根本条件として挙げたのは

「今日の芸術は、うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」

私には、この言葉は「真の美」というものが一つに定まっているものではない、と言っているように思えてなりません。

 

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奈良の街でクリスマスイルミネーションイルミネーションが楽しめる稀有な場所。